彼岸より
オリエンス全土が朱雀によって統一された翌日。世界は文字通り朱く染まった。万魔殿が上空に出現し、世界はルルサスの戦士という得体の知れない怪物によって、殺戮と破壊に支配された。対抗策はない。ペリシティリウム朱雀にも、ルルサスの戦士は近づいている。もうすでに目前だ。魔導院の足元に広がる街はすでに火が放たれた。魔導院に侵入してくるのも、時間の問題だろう。
トレイは魔導院の石造りのテラスに出た。
どう、と強く吹き上がる海風がトレイの髪を乱した。慌てて手のひらで髪を抑え込む。
魔導院の中は罵声と叫び声がこだまし、死の恐怖に染まっていた。非常事態であるこんな時に、テラスにいるような者など誰もいない。喧騒が遠くに響いていた。0組の教室にいれば仲間こそいるが、そこにいたからといって何の解決にもならないだろう。もちろんここにいても、何も変わらない。
そもそも、この現状を解決出来ると思っているのか。
そう聞かれたら、出来ないと答えるだろう。
敗北が目に見えている。明らかに力も能力も相手が上だ。朱雀と全く質の違う戦い方をする白虎に勝ったが、そんな経験も役に立たなかった。
これが、『フィニス』なのだろうか。フィニスについては外局時代、マザーの部屋で見た古文書を読んで知った。オリエンスに昔から伝わる、世界の成り立ちと終わりについて語られた昔話。それは幼子に対する戒めや、道徳の手引きになるような話であったはずだ。誰もが現実に起こるなどと、思っても見なかっただろう。それなのに。
恐ろしい。殺される。こんなはずではなかった。
誰か、助けて―――
地獄の底から響くような声が、海風と共に魔導院に吹き荒れていた。
海上をぞろそろと亡霊のように歩き、ルルサスの戦士がこちらに近づく姿を認めた。誰か先導する者がいるのだろうか。それほどまでに統率のとれた、まるで軍隊だった。
どうして?どうやって?何のために?
こんなときにも関わらず、頭の中は疑問符だらけだ。どうせ死ぬのなら、そんなことを知っても無意味なはずなのに。
「ふ、因果なものですね」
赤黒い海面を見つめながら、トレイは独りごちた。
* * *
ひと際強く風が吹き、トレイは海の方角から顔を逸らし、目を強く瞑った。髪が乱される。そろそろと目を開くと、背後に人の気配を感じた。ここには誰もいなかったはずだ。誰だ。ピリピリとした緊張感を持って振り返ると、そこには見たことのない異形の男が立っていた。
「―――っ!」
目を逸らすことが出来ない。
オリエンスの人間ではありえない巨体。
全身黒の甲冑で覆われた強固な身体。
そして顔には表情を全て隠す大きな仮面。
これは、何だ。
此の世のものではない。
彼の世、異界の存在。
鬼か。
悪魔か。
あるいは。
人ではない。
人間ではない。
もっと禍々しい何か。
関わってはならない。
近づいてはならない。
早く、早く逃げなければ―――
心臓の音ばかりが耳についてうるさい。ストップをかけられたかのようにその場から動けずにいるトレイに向かって、男は口を開いた。
「オリエンスの理を知りたくはないか」
「な……っ」
男の声は脳内に直接響くかのようだった。
「此の世の理を知りたくはないか。貴様が知りたいと望む全ての事象に答えをやろう」
男を信用するのは明らかに危険だった。そもそもオリエンスの理とはなんだ。
「……、……」
無条件でとは言わないだろう。何か条件や取引があるはずだ。だがトレイは何も持ってはいない。ただのアギト候補生だ。アギト候補生という地位も朱雀の中ではエリート中のエリートだったが、朱雀という国家が機能しなくなった今、地位も名誉も無くなった。0組だからといって何だというのだ。トレイが持つものは、身体だけだ。その身体も戦いが続いて傷だらけだった。ケアルをかけても治癒できるのは表面だけだ。疲労は残る。神経が休まることがないからだろう。
「その目、興味はあるようだな」
「っ!」
男に見透かされて、かっと頬に朱が走った。事実、トレイの知識を得たいという欲望はとどまることを知らない。これは、幼いころから変わらない。過ぎる欲は身を滅ぼす。何度そのことで失敗してきただろう。それも覚えている。けれど、抗うことが出来ない。抗えない。知りたい、知りたい、知りたい。
「もちろんただでとは言わんさ。『審判者』の器として貴様の持つ身体が欲しい」
「身体を、引き渡せと」
よりにもよって、ただ一つ持っているこの身体を引き渡せとは。
「そうだ。貴様に『審判者』の役割を与えよう。オリエンスからアギトとなりうる魂を探し出せ。見つからなければ、全ての人類に分け隔てなく、死を与えよ。不必要な魂を集め、扉を開くのだ」
「『審判者』……、アギト……」
まるで現実味がない言葉だ。理解できない。理解できないものは、恐ろしい。逃げだしたい。だが恐怖に足が竦んで一歩も動けない。身体の芯から汗が噴き出た。
「貴様に審判の弓を授けよう。アギトとなる魂の持主であれば、その矢に倒れることはない」
「!」
手のひらにはいつのまにか弓矢が握らされていた。初めて触ったにもかかわらず、酷く手の馴染みが良かった。もう何年も使い込んでいるもののように。
「たとえ、貴方のおっしゃることが真実だとしても、どうして私なのです」
この時に、すでに結論は出ていたのだ。
「気づいているのだろう、この世界の構造に。ならば全て見せてやろうと思った私の優しさだよ」
「優しさ……?」
「あの女も諦めが悪くて困る。今回の歴史はこれで終わりだ。ならば最後に余興ぐらいしてもかまわんだろう」
男の声を聞きながら、ぎゅ、と持ち手を握りしめる。
「残された時間はそう多くない。『審判者』となった時、審判する材料として此の世の全ての理を受け入れることになる。受け入れてもなお、貴様が冷静に審判を与えられるだろうと私が認めたのだ。さて、どうする」
「私は……」
仲間を殺すことになっても。
世界を終末に導くことになっても。
「私は……っ!」
私はまだ何も知らぬ幼子のままです。
このような選択をする私を、どうか許して欲しい。
愚かな私を、許して欲しい。
「お前は望むか。世界の理を知りたいと望むのか」
男の声は甘美なまでに耳に響いた。欲に、抗えない。トレイは震える指先を、男に伸ばした。
「私は、知りたい」
【終】
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