賢者の憂鬱
あ、トレイだ。
場所は午後のクリスタリウムである。クリスタリウムは中央が吹き抜けになっており、階下が見下ろせる構造になっていた。ちょうど真下が椅子と調べ物をするための机が並んでいる。エースはたまたま階下を覗き込み、そこに0組の姿を見つけたのだった。トレイだ。周りには誰もいない。トレイは勉強や調べ物を自ら率先して行うタイプで、普段からクリスタリウムには足繁く通っているようだった。今はレポート課題も、報告書を出すようなことも、なにもなかった。そのためか、クリスタリウムを利用する候補生たちの人数もなんとなく少なく感じられた。
じっと見ていると視線に気がついたのか、トレイが不意に上を見上げた。エースと目が合う。くい、とエースが顎を上向ける仕草をすると、それだけでわかったのかトレイは少し微笑んで、手にしていた本を閉じた。
掲示板の前で待っていると、しばらくしてからトレイが先程読んでいたらしい本を抱えてやってきた。小さな文庫本だった。
「やぁ、エース。どうかしましたか」
「別に。トレイが見えたから。それ、何読んでいたんだ」
「え? これですか」
「そう。ずいぶん難しそうな顔をして読んでいたから」
作戦前でもないのに、眉間にしわを寄せて読んでいたのが、エースにはよく見えていたのだ。トレイはうーん……、と言葉尻を濁す。
「そうですね……。ここでは何ですから、裏庭にでも行きましょうか。あまり私語をすると怒られてしまいますしね」
そういうと、二人はクリスタリウムを後にした。
* * *
教室を抜けて裏庭への扉を開いた。運よく定位置であるベンチには先客がいなかった。並んで座る。もう日がだいぶ傾いているためか、直射日光もそれほど強くない。トレイは本を読むわけでもなく、パラパラとページをめくった。
「エース。あなた言ったじゃないですか。どうして僕に抱かれるんだって」
「は…?」
「それでですね、私もあの後いろいろ考えてみたのですよ」
そんなくだらないことを考えるために、トレイはわざわざクリスタリウムへ行っていたのだろうか?
やっぱりトレイは馬鹿なんじゃないか……。
思った言葉を飲み込んで、それで、とエースはトレイを促した。
「いつの時代も、愛や恋といったことは永遠のテーマなのでしょうかね。資料には事欠きません。鴎歴以前の対話集にも、そのような話は載っていましたよ」
読みますか、と先程クリスタリウムから借りてきた古ぼけた本をトレイは差し出した。だがエースにはとても読む気がしなくて、いいと首を振った。だいたい古典文学なんて誰が読むのだろう。あぁ、トレイか。きっとこの魔導院中探してもきっとトレイしかいないだろう。目の前の男に向かってエースは小さくため息をついた。
「男と女であるならば、年頃になれば孕ませ、産み育てることが出来るでしょう。でも私とあなたは、男同士ですから、当たり前ですがいくら抱き合っても何かを生み出すことは出来ない。マザーなら何か方法を知っているかもしれませんが、ここでは一般論を通します。何も得るものが無く、生み出すことの無い関係は不毛としかいえません。そしてあまりにも不健全です。欲のままに肉体関係を結ぶ、というのは。ならば女性を抱けばいいという話ではなく、またそれは女性に対しても失礼にあたるでしょう」
トレイ、お前が話していることが一番不毛だよ。
そう喉元まで出かかっていたが、エースはまだ我慢した。まだしばらくつまらない話を聞かされるのだと思い、ふぁあ、と大きなあくびをする。
「……それでも私はあなたのことが好きです。愛しています。あなたと一緒にいたい」
「っ!」
急に核心に触れて、エースは開けていた口を慌てて噛みしめた。
「理屈では私とあなたの関係は続けるべきではないのだと思います。それでも……、そうですね。端的に言えば、ほら」
不思議そうな顔をするエースの手をトレイは取った。
「こうして触れているだけでも、私は満足なのですよ。あなたと話して触れ合って、あなたの考えやあなた自身のことが少しでも理解できるなら、もうそれだけで幸せです。理解できる、なんて言い方おこがましいかもしれませんが」
ふわりと微笑んで手の甲を撫でるトレイは自分で言ったとおり幸せそうで、きっと女ならばすぐに惚れてしまうだろう。だがエースは男だった。
「……トレイは手を握るだけでいいのか。セックスしたくないのか、僕と。それで、満足だって?冗談じゃない」
「エース」
「僕はトレイを抱きたいし、自分のものにしたいし、もっと近くにいたい。トレイ、お前は?」
早口でまくしたてる様に言い、エースはトレイに詰め寄った。
「お前は、どうなんだ」
「は……。はい、もちろん私もそうですよ。あなたと、するのは……その、好きです。恥ずかしいですけれど。触れ合うことは、気持ちが、いいです」
トレイの返事を聞いて、エースはぐっ、と息を詰めてから声をあげて笑った。
「あはははは! 馬鹿だ!」
「え?」
「トレイは馬鹿だと言ったんだ」
「エース!」
馬鹿だ馬鹿だと言われて、さすがのトレイも良い気はしない。
「くだらないこと考えてないで、トレイは僕の好きにされていればいいんだ」
「っ、それではあまりにも」
「黙って」
エースはトレイの顔を覗き込むように、ずいと顔を近づけた。
「トレイ、本当に何もないなんて思っているのか。何も、生み出さないと。本当に?」
「……あなたには、かないませんね」
「だろう」
ふふん、とエースは鼻を鳴らして笑うと、勢いよくベンチから立ち上がった。トレイもつられるように、ゆっくりと立ち上がった。
「もう日が暮れますから、そろそろ寮へ戻りましょうか」
「そうだな。夕飯どうする」
「エースと一緒で構いませんよ」
「じゃあ一度部屋に戻ったら、寮の食堂で待ち合わせしよう」
「わかりました」
前を歩くエースの背中に、トレイは黙ってついていく。教室を抜け、魔導院のエントランスにある寮につながる魔方陣に向かった。
知っていますか、エース。
愛というのは、未来永劫、自分のものとして確保しておきたいという欲のことです。
あなたは私に対して、その欲を隠しもしないけれど。
私にだって、あなたに対する欲はあるのですよ。
私だって、あなたを愛しているのですから。
「トレイ、何しているんだ」
「すみません、今行きます」
遅い、と振り返るエースに向かってトレイは駆けだした。
【終】
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