ナツコイ。
低くエアコンの作動音が響いていた。カーテンは閉めてあるが、照りつける日差しはそれさえも貫きとおし、部屋に小さな陽だまりを作る。トレイは論文を書くための資料に目を通していた。締め切りはまだ先、この夏季休暇明けだったはずだ。
ぱら、と新しい章に入るところで、ベッドの上に放り投げてあったCOMMが鳴った。
「はい」
『トレイか。今何している?』
腕を伸ばし、通話ボタンを押すと聞きなれた声が耳に響いた。キングだ。
「何って、別に」
『今夜の予定は?』
「別に何もないですよ」
家庭教師のバイトも今日は休みだった。ゆっくり本でも読んで、好きな事をして過ごすつもりだ。ただし外には出ないで。
『今日、何の日か知っているか?』
次々と質問を重ねるキングに、キングと何か約束でもしていたか、とトレイは思った。だが思い返してみても、なにもそれらしいことは思い出せなかった。
「さぁ……、あ」
ちょうどその時ドン、ドン、と外から昼花火の音が聞こえた。催しを知らせる段雷が鳴ったのだ。
『川で花火大会やるだろ。今からお前の所に行くから、出かける準備しておけよ』
「キング、勝手に」
トレイが全てを言い終わる前にCOMMはプツリと切れた。
「もう、人の話は最後まで聞きなさいと……」
口では不平を言っていたが、トレイの顔は笑っていた。
* * *
三十分もしないうちに、キングはトレイの部屋の前まで来た。おそらくトレイに連絡したのは、すでにキングの部屋を出た後だったのだろう。
「早かったですね」
「そうか?」
トレイの部屋から十五分も歩けば川沿いの土手に出る。今夜、そこで毎年恒例の花火大会があるのだ。まだ時刻は十八時を少し回ったところだが、見回せば多くの色鮮やかな浴衣を着た女や子供がはしゃいでいた。開始時刻は十九時だ。それまでにゆっくり歩いていけばいい。二人はTシャツにジーンズという簡単な服で、土手を歩いた。土手は三キロほどの遊歩道になっており、土手沿いは花火大会本部を起点に、左右に屋台の列が伸びていた。土手沿いに並ぶある屋台で冷えた缶ビールと簡単なつまみを買う。缶ビールは大きな水槽に入れられており、大きな氷の塊と一緒に浮いていた。
騒がしいのはあまり好きではない。屋台から少し離れた、人気の少ない場所にキングとトレイは腰を下ろした。打ち上げ場所や本部から離れているが、ここでも十分間近に花火が見えるはずだ。
そろそろ時間だ。会場本部から間延びした役員のあいさつが終わると、ようやく花火が打ち上げられ始めた。それを合図に、お互い缶ビールのプルタブを持ちあげた。プシッと炭酸の抜けるいい音がした。時間が開いてしまったため、少し温くなってしまったが、それでも渇いた喉には美味しかった。
ひゅるる、と細い音の後に夜空を照らす大輪の花が咲いた。トレイもキングも何かを話すことなく、じっと夜空を見上げていた。次々と断続的に打ち上げられる花火は、おそらくスターマインだろう。花火が打ち上がると、いたるところから歓声がわき上がった。色ばかりではなく、ハートや星型といった形が変わったものも打ち上げられる。
どういう理屈でそのように打ち上げられるのだろうか。今度調べてみよう。
不意にキングが口を開いた。
「今日は、随分静かだな」
「お望みであれば、解説いたしますが」
「いや、遠慮しておこう」
花火の種類にもさまざまなものがある。星の散り方によって菊、や牡丹といった花の名前がつけられている。また玉の大きさによっても花火が打ち上がる高さや、開花の直径などが変わるが、さすがにそんなことを話すのは野暮であるとトレイも自覚している。今日のような日では、美しい、綺麗だと言って素直に手をたたくのが最も敬意を表し褒めたたえる方法だ。
足元に生える夏草が昼間の熱を吐きだしているかのように、草いきれが満ちている。気にすると息苦しいほどだ。気にすると言えば、汗で張り付くTシャツも気になる。だが気にしても仕方がない。飽きずに空を見上げていたが、ふと気づけば隣に座っていたキングが、先ほどよりも近いところに座っていた。顔が近付く。
「な、なんです」
「手でもつなぐか」
「嫌ですよ、こんなところで」
何を言っているのか、とトレイは眉をひそめた。
「キスは」
「もっての外です。ここは公共の場ですよ。モラルを守れない人は嫌いです」
「誰も見てないだろう。それにこんなに暗かったら見えない」
「そういう問題ではありません」
トレイがつっぱねると、あからさまにキングは不機嫌になった。だいたい花火大会など、家族連れや、恋人同士のデートの定番だ。キングがしたいというのもわかる。でもだからといって行動に移すには、理性が邪魔をした。キングの子供のような態度にトレイは苦笑する。嫌ではない。嫌ではないのだ、トレイだって。トレイはキングに向きなおり、言い聞かせるように言った。
「私は、ここでするのが嫌だって言っただけです。手を繋ぐのも、その、あなたとキスとするのも、好きですよ」
面と向かって好きだと言ったのだ。薄闇で見えないだろうが、トレイの頬は赤く染まっていた。
「……トレイ、帰るぞ」
「え」
急に帰るなんて言い出してどうしたのだろう。もしかしてキングは本当に怒ってしまったのだろうか。
「違う。帰って、お前を抱くんだ。キスも、セックスもお前が満足するまでやってやる。やめろって言ってもやめないからな」
「ちょっと、どうしてそういう話になるのです!」
トレイは叫んでキングを突き飛ばした。
* * *
人込みをかき分けながら土手を歩いていると、正面から見知った男に声をかけられた。
「なんだ、おめーらも来てたのか」
紺色の甚兵衛を着崩したナインが、最初にキングとトレイに気がついた。よく見ればジャックとエイト、エースもいた。ならば、探せば女子達もいるだろう。マキナは、おそらくレムと一緒だ。約束していないのに、0組全員がここに揃ったことになる。元々イベント好きな連中だ。夏祭りに来ない方がおかしい。
「トレイ~見て見て、僕が取ったんだよ~」
ジャックが無邪気に掲げて見せるのは、金魚の入ったビニール袋。中に赤い三匹がゆるやかに泳いでいた。
「俺は言ったからな。飼う道具がないからやめろって」
「お祭りなんだから、かたい事言わないでよぉ~」
ジャックとエイトのやり取りにクスとトレイが笑うと、エースがキングの傍にやってきて、小声で話しかけた。
「キング、向こうに射的があったんだ。お前得意だろう?」
暗にキングにやれと言っているのだ。キングも毎度のことなので気にはしない。
「欲しい景品があるのか。チョコボのぬいぐるみとか」
「なんですぐわかるんだ」
むっと、むくれるエースにナインが大口を開けて笑った。
「おめー、まだぬいぐるみなんか欲しいのかよ」
「だってチョコボの特大サイズなんか、なかなか見つからないんだぞ」
「わかったわかった。一発で仕留めてやるから、その店まで案内しろ」
ふっと笑うキングにエースの顔も明るくなった。きっとエースは帰りには両手が届かないほど大きなチョコボのぬいぐるみを抱えて帰ることになるだろう。
楽しそうにはしゃぎながら先を行くエースたちの背中を見ながら、トレイはゆっくりと後をついていく。目の前を歩いていたキングがふと歩みを止めて、トレイを待っていた。
「結局、みんな揃いましたね」
「まったくだな」
歩幅をそろえて、キングとトレイは土手の上を歩いた。
すこしずつ、エースたちと距離が離れていく。
後ろには、誰もいない。
どちらからともなく、そっと腕を伸ばした。
絡んだ指先の熱。
触れた唇も、同じように熱かった。
「……キング」
夏の夜空は、瞼の内側に鮮やかな閃光を残した。
【終】
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